もう2度と来たくない
「もう2度とこの山に来ることはないな」
そんなことを考えながら、山道を走った。
金峰山の登山口にあたる大弛峠の駐車場までは、高速のインターを降りてから42キロもある。しかも、半分は山道で、クネクネの細い道を1時間走り続けないといけない。
夜の11時を過ぎていた。カーブを曲がるたびにヘッドライトが右から左、左から右へと不気味な森を照らす。舗装されているのが幸いだ。ギアを3速、ときには2速に入れて、緊張感マックスで登る。突然ヘッドライトに照らされる道路わきの巨大な落石にゾッとする。後部座席に何かいるんじゃないかという気持ちに度々襲わた。「それは絶対に嫌です、それは絶対に嫌だって!」と叫んで、お願いする。
「こんな山の中で入るかな…」たまらず、ラジオのスイッチを入れた。突然、聞いたことのない言葉が何かをまくしたててきて、異空間に入ってしまった気がしたが、すぐに「これは韓国語だ」と正気に戻った。普段は車で一切ラジオを聴かないが、人の気配に生きた心地がした。ほかのチャンネルに回す。
今夜は、この林道の終着点の大弛峠まで行かねばならない。大弛峠には登山口と駐車場があり、そこで車中泊する予定だからだ。大弛峠は車で行ける最高点まで行くそうだ。仕事が終わってから首都高、中央道と高速を飛ばしてきたのに、これから山道を走り続けないといけないなんて…。
途中、ノロノロ走る僕の車を抜いていくスバル車がいて、この道が間違っていないと確信した。ちょうど夜中の12時に大弛峠に到着。すでに駐車場は車中泊する車で半分以上埋まっていた。ラジオが消え、軽自動車のうるさいエンジンの音が消えた。嘘のような静寂があった。
外に出る。ブルッと震えた。6月はじめでTシャツ姿だった。下界は夏日だというのに、山の上は冬のようだ。無意識に空を見上げる。無数の星が瞬いていた。天の川がハッキリ見えた。長野に住んでいたときと同じ星空だ。看板やトイレを確認しながら、駐車場に止まった車を見て歩く。本格的なカメラを三脚にそえて星を撮る人がいた。「俺も撮ろうかな」と思ったが、車の中へと退散した。
ここは標高2000メートル。滅多に行かない標高だと出発前に気付いてダウンウェアを持ってきて良かった。ダウンを上下とも着こみ、車の窓に目張りをして寝る準備をした。
シュラフは2つもってきた。膝にかけるとほんわかと暖かくなった。車内の温度計をみると4度を差していた。途中のスーパーで買った40%OFFのメンチカツ弁当を食べる。弁当を食べたら、明日に備えてすぐに、2重にしたシュラフに潜り込んだ。普段からマクラにしている2つ折りした座布団に頭を乗せ、シュラフの暖かさを感じると幸せになった。
いざ金峰山へ登山開始
翌朝、7時に起床。外を窺うと、すでに、登山口へ向かう人々が見えた。皆、笑顔だ。空を覗くと、快晴だった。
すぐに飛び起き、トイレへ行く。昨夜は暗くてわからなかったが、駐車場は30台ぐらい止まれそうだ。すでに、林道沿いにも路駐の車がいる。
朝食の弁当を食べる。いつも通り「忘れ物は無いか」とオロオロしながら長い用意をし、何度も車のドアの鍵を確認し、8時半に出発した。
金峰山は、長野県と山梨県にまたがる百名山だ。長野県側からは「きんぽうさん」、山梨県側からは「きんぷさん」と呼ばれる。自分にとって百名山は、2つ目になる。
勝沼ICまでは都心からも近く、アクセスはしやすい。電車、バスを乗り継いでくる人も多い。地図は必須だが、標識や登山道ははっきりしている。土曜なので、登山客は多かった。先日の大菩薩嶺と同じく、イベント並の人出といっていい。
すでに多くの人が先行している。他人の服装を見ながら、歩き方を盗みながら、歩みを進める。3つのグループを抜き、2人の単独者に抜かれながら、頂上を目指す。
他人の服装を見学すると、長袖シャツか薄手のウィンドシェル、タイツに短パンが多かった。ザックは意外と大きくて40Lぐらいある気がする。今日は化繊のTシャツの上に、ファイントラックのドラウトセンサーを着た。これはたぶんジャージと言われるものだが、アウトドアに行くときは必ず着るほど重宝している。6月上旬だが、この格好が少し汗ばむ程度でちょうど良かった。風が吹くと手が冷たかった。薄手の手袋があるとなお良かったかもしれない。
シラビソの林を歩く。看板に、書いてあった。登山初心者だから、何でも吸収していく。
独りで登っているとついペースが出てしまうことに気付いた。息が乱れない程度のペースで行く。若者のグループが雑談しながら登っていたが、それぐらいのペースが良さそうだった。
途中には、オオシラビソとシラビソがあった。マツ科モミ属の常緑針葉樹で、日本の固有種だそうだ。
シラビソの幹には、「ウィッチーズ・ヘア」がついている。魔女の髪と呼ばれる植物は、ユーコン川をカヌーで下ったときに焚きつけとして重宝した。正式名称は、サルガオゼだった気がする。日本にもあるのだと思った。自分は何も知らないのだと思った。
そして、何も知らない初心者だから、何にでも感動できる。
尾根に出ると、一気に感情が上昇した。
「すごい、…すごい」
他の登山客はいたが、つい声が漏れてしまった。普段は感情を押し殺しているのに。
この間の大菩薩嶺もすごかったが、この山からの景色もスゴイ。
雪をかぶった富士が張りつめた空気の向こうに佇んでいる。
稜線を抜ける風が冷たい。高度を感じる風だ。清々しくて、心の中までスカッとすっとんでいく。
ここまでの道は素晴らしかったから、少しも疲れていなかった。休むのはもう少し先にしよう。プラティパスの水を吸って、先を急いだ。
そして、次の尾根を目にしたときに、感情が爆発した。
シラビソのトンネルを抜けると、白い石の尾根と快晴の青い空が目に飛び込んでくる。次に、腰の高さほどのケルンが見えた。
そして、ぼくは朝日岳を望む稜線に立った。
「こんな風景があったなんて…」
感情が目から一気に溢れてきてしまった。
アウトドアに親しみながらも、登山には全く興味を示さなかった後悔。
先日の素晴らしかった大菩薩嶺、そして今回の金峰山。仮にこれから百名山だけを登るとしても、あと98座残っているという事実。
まだ日本全国の山々が自分の人生に残されているという嬉しさと、これまで登ってこなかった悔しさとが、一気にあふれ出した。
まわりには、写真を撮ったり、ストーブを囲んで輪になり食事をしている登山客がいた。
溢れるものを飲み込んで、もう一度風景を見渡した。
雪を残した富士山がくっきりと見える。アルプスの山々と八ヶ岳にも雪がかぶっていた。
左には白い石の登山道が快晴の中へと伸びている。そこを点々とカラフルな登山客が歩いていた。
そして、五丈岩に到着した。
この岩の写真を見て、この山に登ろうと思ったんだ。
この岩の存在感に圧倒される経験は、登った者だけが感じられる特権だ。皆が、この岩を見上げていた。
風が強いので、五丈岩の影に隠れて座った。同じように風をさけてやってきた若者が、そばの岩に場所を見つけた。
顔に刺さる風を感じながら、冷たくなった弁当を広げる。
目の前には、青と白の富士があった。
(2017年6月3日)